S41年卒の部室
大嶋 和博

 

1 当時の状況等について

  
 吉尾さんが3年で1〜3年あわせて12名の部員だった。2年次に前川、小島達が入部してやっとまとまった練習ができるようになった。それと同時に早稲田に行った吉尾さんが帰った夏休みの地獄の合宿が始まる。その結果2年次の新人戦で優勝する事ができた。3年次には宮原達が入部、サッカー部中断から吉尾さんの力で再開されたサッカー部の陣容が整った。

 そのころ、県内高校サッカーチームは市内8,市外(郡部含む)8の16チームだったと記憶している。ものすごくマイナーなスポーツだった。先輩から教えられた「世界で一番競技人口が多いのはサッカーだ」の言葉が心のよりどころだった。


2 戦績等について


 2年次、昭和39年度新人戦優勝

 (それ以外はあまり記憶無し)


3 回想記、その他


 サッカー部に入部して1ヶ月ほどたった時試合があった。当時はWMフォーメーションの時代でインナーの練習をしていた私だったが、ハーフの先輩が負傷、控えは私しかいない状況なので、交替で出場することになる。緊張の中ボールをコントロール(トラップ)したつもりだったが、ミスで相手のCFにパスをする形になってしまった。当然ゴールを許すこととなった。これが忘れもしない43年前の私のサッカー人生の始まりだった。

 貯金局の緒方さんや、消防局の石丸さんが、グランドに来て練習を見てくれた。自衛隊の大谷さんの関係で、北熊本自衛隊と試合した。熊大とは中山(重)さんの関係でよく試合した。多くの先輩に見守られてサッカーをしたように思う。私達ももっとグランドに行くべきだが、指導については山口監督が日本協会の指導指針に基づいて行っているでしょうから、たくさんの激励をすべきだろう。

 昼休みはボールミガキで、練習前にはボールに空気を入れ、ニードルで縫う作業をした。ヘディングの時ニードルで縫った部分にあたると痛かった。練習後は再び空気抜きが必要だった。グラウンドのトンボ引きなどは無かった。その代わり、鎌を持って草刈りが必要だった。時には除草剤をまいたこともあった。ラグビー部が突入したり、野球のボールが飛んできたり、陸上部のリレー練習で中断したり、練習環境も整備できていない中での3年間、今ではよい思い出である。

 わたしたちの学年は、高光康徳(主将)、谷保行、溝口康三、福海清文、後藤健次と私、大嶋和博がいたが、私がOB会の会長になるなど誰も予想しなかっただろう。

12月に福海が死亡したと連絡を受けた。冥福を祈ります。

後列左より谷、後藤、溝口、右は部長 野口先生
 前列左より、福海、高光、大嶋、
 (卒業アルバムより再生)