S54年卒の部室
1 当時の状況等について

  昭和51〜53年頃は、市内では九州学院、熊本工業高校、熊本農業高校、市外では八代高校、八代工業高校の八代勢が強かった。

  その中で、我が校は1年次(総体ベスト4、選手権ベスト4)、2年次(総体優勝、新人戦ベスト4)と県内でも常に上位に名乗りを上げていた。

 

◇少数精鋭の54年卒部員◇

 新入部員は20名近くいたが、2年次には6名(内田、乙丸、合屋、前田、下城、白石)、3年次には白石、下条が足のケガで退部し4名になった。

 

2 戦績等について

1年の選手権予選

 2年生主体のチームで、1年では乙丸、前田を左右のウイングに配し、白石さんをセンターフォワードとするチームであった。白石さんといえば1対1が強く、県下ナンバーワンのサッカーセンスとスピードがあり、トップに白石さんひとりを残し、バックからでも白石さんにボールを集め、後は個人技で勝負、というパターンが結構あった。

選手権の準決勝までは順当に勝ち進み、相手は熊本工業と九州学院の勝者であった。熊本工業はその年の総体で負けており、パワーで押してくるチームの印象があった。一方、九州学院は個人技に優れていたが力強さは無く、夏の練習試合では勝っていたことから、熊本工業よりはやりやすいと思っていた。準決勝はダブルヘッダーの2試合目で、会場の熊本工業に着いたら相手は九州学院であることが分かり、「よし、いけるかもしれない。」いう感じが心の中にあった。

 しかし、試合は前後半では決着が付かず延長戦となった。試合の流れとしては九州学院がやや押し気味であった。延長戦でも点が入らずPK戦かと誰もが思っていた。延長後半10分が過ぎ時計を見ていた清原さんが「PKですかね」と吉尾監督と話をされていた。しかし、その瞬間に九州学院が1点を取り、同時にタイムアップとなった。確か、45秒ほど過ぎておりロスタイムがなければPK戦となっていた。その主審をされていたのは熊本高校の部長さんであり、ロスタイムのとり方を悔やんだ。

 また、1年生でキーパーをしていた合屋が指や肩の故障をしていたため、3年生の岡田さんが受験前にもかかわらず参加してくださって大変申し訳なかった。(合屋)

 白石さんは、その試合を最後に「他にしたいことがある。」という理由で退部された。

誰もがショックを受けたが、それをバネにして、これまで白石さんひとりに頼っていたパターンから脱却し、チーム全体の力をアップせざるを得なかった。

 

2年の総体予選


  岡田さんの後任キーパー選びが最大の課題であった。2年の合屋がキーパー候補であったが、ケガが多く3年の西坂さんと交代でしていた。しかし、新1年生にシンデレラボーイが現れた。八代からきたサッカー未経験の川口である。キーパーコーチ清原さんのマンツーマンの指導で、総体予選までの約2ヶ月間で驚異の上達を示した。ハンドボールで鍛えたボールへの反応のよさとボールを怖がらない勇気はすばらしかった。しかし、時々パントキックをミスってボールが相手にわたることがあり、ヒヤッとさせられる場面もあった。

また、新入部員の中でひときわ小柄な北野がセンターフォワードに入ってきた。フォワードは、左の前田、右の乙丸と170cmを越える選手がおらず、済々サッカー史上でも最小の前線ではないだろうか。

  ハーフは大村さん、古木さん、西岡さんであった。白石さんが抜けた後、この中盤から両ウイングにボールを回し、センターリングをあげて逆が詰めるというパターンが確立した。

  バックは、ストッパー西坂さん、スイーパー中山さん(キャプテン)、サイドは小浦さん、興梠さん、内田、合屋であった。中山さんは足が速く、ファイトマンで頼りがいがあったが、時々何でもないボールを空振りする癖があった。

  忘れてならないのは田尻さんである。身長も高くセンターフォワードとして非凡なセンスがあったが、何故か、出場機会が限られていたのが残念であった。(しかし、県予選の準決勝・決勝では、値千金の得点をゲットする活躍であった)

 

総体県予選では試合毎に調子が上がり、準決勝までは順当に勝ちあがった。しかし、3回戦のマリスト戦の前にアップをしていた時である。自分たちでは気づかなかったが、清原さんから「気合が入ってない!」と全員愛のビンタを受け、目を覚まさせられた。この試合も6−1で勝つことはできたが、後半が終了してセンターラインに集合したら、審判が「試合時間が短かった」と、5分間の再試合を行った。このような経験ははじめてであった。準決勝は昨年の総体で負けた熊本工業高校であった。前後半と延長でも決着が付かず2対2の引き分けでPK戦となり、これを3−2で制して昨年の雪辱を晴らした。

決勝戦は、前回の選手権で優勝した八代工業であった。この試合も延長までしたが2−2でPK戦となり、最後に決めたのは西岡さんだったと思う。ゴールの右上にシュートが決まった瞬間、済々ベンチから西岡さんに走り寄り、喜んでいたら主審から出て行くように指示されたのを覚えている。試合終了後、吉尾さんを胴上げし、次は清原さんをとなったら、清原さんは「全国大会に勝ってから」と辞退された。

(結局、胴上げすることは出来なかった。残念!)

 

九州大会

九州大会は大分県で行われた。高台に芝のグラウンドが2面あり、すばらしい環境であった。

1回戦は、宮崎県第2代表の日南高校と対戦し、1−1でPK戦となった。県予選でも2試合PK戦で勝ち抜いてきたため、負ける気はしなかったが5人で決着が付かず、10人目の興梠さんでようやく8−7で決着が付いた。なお、内田は、この試合の前半で相手フォワードからすねをけられ、15分で交代した。

2回戦の相手は、大分工業であった。相手は、背の高い選手を前線に揃えており、空中戦を制されヘディングシュートで失点を重ね、結局0−3の完敗であった。

 

インターハイ全国大会(8月1日〜8日)

全国大会は岡山県で行われた。開会式はとても暑く、式の途中でプラカード持ちの女性や選手でも熱射病で倒れる人が多かった。宿は九州トップの島原商業と一緒であった。彼らは体格が一回り大きく、顔つきもゴツク同じ高校生とは思われなかった。夜、のどが渇いたということで、ジャンケンで負けた2年内田と1年平田が飲み物を買いに行った。宿に帰るとみんなが正座していた。騒ぎ過ぎてほかの客に迷惑をかけたということで、「修学旅行に来てるんじゃないんだぞ」と怒られた。試合まで3日間程あり、集中力が欠けていたのかもしれない。

1回戦はシード、2回戦で広島県立工業高校と対戦した。県工にはユース代表の猿沢がおり全国でも強豪校であった。試合結果は0−5の完敗であった。

相手はバック同士でドリブルやパスを回し、こちらのフォワードがボールを追い回る展開で、熊本県内ではしたことがないレベルの違いがあった。(乙丸)

後半15分ぐらい出してもらった。相手のシュートをゴール内にポジションを取りクリアしようとしたら、芝が朝露で濡れており滑ってタイミングが合わなかった。また、次の日の地元新聞に、「済々は大村を中心に攻めるも力及ばず完敗」という内容の解説が載っていたのを覚えている。(内田)

 

新チームでの選手権予選

新チームになってからは、2年生が少なく1年生主体ということもあり、選手権予選は1回戦では市立商業高校に3−0で勝ったものもの、2回戦の第一工業高校には1−4と完敗だった。

 

新人戦

済々チームは他校より早く新体制のチーム作りをしていた結果、新人戦は3位になった。2回戦の商大(現学園大)付属高校にPK勝ち、3回戦の八代高校にも1-0で競り勝った。

八代高校はワントップのセンターにボールを集めてくるタイプで、よく競り合った記憶がある。(合屋)

準決勝の熊本農業高校とは、1点を争うシーソーゲームであったが、3−4で粘り負けした。この試合は合屋が相手フォワードの足を引っ掛けたとしてPKとなったが、明らかに主審の誤審であった。主審は熊高の部長だった。(またか)

 

3年次の総体予選

新人戦の勢いをそのまま持って行きたがったが、組み合わせが悪く1回戦シード後の2回戦で当時最強の九州学院と初戦にあたった。最後までペースをつかむことが出来きず、2年生平田のバーに当たる惜しいシュートがあったが、結局0−3で負けて済々黄でのサッカーがあっけなく終わった。

その試合を見ていた他チームから、良く3点で抑えたと慰められ、逆に頭にきた。(合屋)

九学センターハーフの大久保の引き技に翻弄させられた。(乙丸)

 

3 回想記、その他

(内田)

 ・夏合宿は、1年と2年の2回経験した。1年の時は、阿蘇内牧の池田先輩経営の五岳荘に泊まり3時頃になると夕立が降ってきたことを思い出す。

 ・最近、仕事の関係で25年ぶりに五岳荘に泊まる機会があった。現在は温泉付きビジネスホテルに改装されており、昔の木造ではなかったが温泉は相変わらず気持ちよかった。

・2年生の合宿は、練習時間を確保するということで、母校のグランドで行った。阿蘇と違い、市内は暑くて熊大の学食での昼食がノドを通らなかった。宿は子飼商店街にあるお寺を利用させてもらった。風呂は自宅や親戚の家を利用するなど1年時とは大きな違いであった。

・マネージャーは、山根(現姓山本)さんと堤田(現姓中屋)さんの2人が良く頑張ってくれた。練習が終わって部室に入ると、泥だらけの汚い部室がきれいに掃除してあったのに感激した。

・そう言えば、2年生の夏休み、山根さんのアパートに2年部員が集まってワールドカップを見たのを思い出した。

(乙丸)

・全国大会で完敗して分かったのであるが、ウイング中心の攻めパターンだけでは強敵と戦うことはできないと。ハーフの攻め上がりや中央突破等、いくつかの攻撃パターンを持っておかないと戦えないと気づいた。九州大会までは、俺や前田がなんとか相手バックに通用したが、全国大会では何ひとつ仕事をさせてもらえなかった。

・最近の子どもたちは、「練習が楽しい」とよく言う。いわゆるサッカーすることが喜びなのである。それに引き換え、当時の俺は、試合だけが楽しみで、練習は本当につらかったことを記憶している。 

・練習後、帰宅途中、店に先輩たちと立ち寄り、お菓子を食べながら話をするのは楽しかった。ここでサッカー以外の雑学をよく勉強した。

・試合後の打ち上げを田尻さん宅で開いたのはよく覚えている。

・九州大会で島原商業高校のシュート練習を見て、驚いたのを覚えている。俺たちのシュートは半分ぐらいは枠をはずすのだが、島原の選手はゴール隅っこにほぼ100%入れていた。このとき、格の違いを感じた。おそらくこのとき、島原は全国優勝したと思う。

     顧問の前田先生は、練習前、俺たちがしなくてはいけない「グランド整備」をよくされていたのを覚えている。練習には口を出されなかったが、その他の面での細やかな気配りに感謝している。