S49卒の部室
S.48.1/3 全国サッカー選手権出場メンバー

FW 3年:村上信介(白川) 2年:松本安宏(藤園)、中村 聖(西山)
MF 2年:★宮崎重文(錦ヶ丘)、田添博高(帯山)、湯田逸夫(白川) 1年:大渕龍介(白川)
DF 2年:詫間一郎(付属)、薮田正剛(京稜) 1年:山本修史(京稜)、高士(竜南)、村田康弘(竜南)
GK 2年:上妻昭一(花稜) 

        (全国大会出場雑記) 〜サッカーの神様の気まぐれ〜
                               昭和49年度主将 宮崎重文

●素材・油断・442システム 
 秋の選手権では進学校は1,2年主体での出場となるため、余程のことがない限り好成績を残すのは難しい。だがこのチームにはその余程のことが起こってしまった。
〜素材〜
 もともと毎年当校には市内の各中学の優秀な選手が集まってくる。スポーツに長ける子は勉強も出来るのはいつの時代も同じだ。指導者が苦労して育てるまでもなく、それなりの実力が最初から常に備わっているチームなのだ。新入部当時の部員を振り返ると
 湯田・上野・後藤(白川中)薮田・久保(京稜中)田代・城本(東野中)松本(藤園中)
 田添(帯山中)詫間(付属中)川津・上妻(花稜中)真島(江南中)中村(西山中)
 宮崎(錦が丘中)   ※もっといたかも知れないが、現在の記憶の限りで・・・
 しかし一年夏の合宿を過ぎたあたりで、上記の8人だけが残って一年後の奇跡を起こすことになる。
 ⇒ 一年夏の合宿(阿蘇内牧)
 吉尾コーチ、清原コーチに指導していただき、初めてインターバルランニング10本を経験、猛暑の中の苦しかったが懐かしい思い出となった。吉尾コーチからは紅白ゲームの後、「お前たちがしたのはサッカーやない」と一刀両断にはき捨てられたのを鮮烈に覚えている。ご自身の描くサッカーと余程かけ離れていたのだろう。とにかくびびっていたというのが当時の吉尾コーチに対する印象だった。清原コーチは当時、まだ高崎大学在校中だったと思うが、合宿へのバスのなか、そのごつい風貌で「全員長髪がいやになるぐらい鍛えてやる」と脅されたが、実際は情に厚く、むしろ優しすぎるくらいの先輩で、このときより高3最後の選手権まであたたかく励まし続けていただいた。(後にRKK放送のアナウンサーとして成功されたそうですね)

 ⇒ 二年夏〜
 総体ベスト4で敗退したことで、3年生が引退(村上先輩だけは選手権まで続行)し、まちにまった天下となったが、どういうわけか自分が主将に選ばれた。松本と自分が一年のときから試合に出ていたという理由だろうが、自分のやり方はとにかく自由、奔放、独断専行の連続で、前田先生いわく「ユニークな主将だった」で決して優秀な主将ではなかった。
〜油断〜
 1、2年生チーム(3年生は村上信介先輩が唯一参加)が県大会を勝ちあがるのに絶対必要なのは、相手チームが油断して実力を十分に出さないでくれることだ。その夏の総体での実績からすると八代第一、熊本工業が特に抜き出ており、八代第一に対しては3年チームでさえも敗れている。その3ヵ月後に、その1、2年チームが優勝するなどまずありえないのだが、この両校、相当の油断があったようだ。なぜか両校とも準決勝に勝ち上がって来ない。結局、八代第一を破ってあがって来たのは鎮西高校であり、村上、松本2トップパワーの爆発で8−0で難なく撃破。決勝は同じく強運であがってきた商大付属、ラッキーチーム同士の対決は3−3で両校優勝となり、鹿児島、沖縄と全国大会出場をかけた南九州大会へとコマを進めた。(熊本開催だったので2チーム出場)
 初戦の相手は鹿児島工業であったが、この秋の国体では全国3位の鹿児島チームの主力校。闘えるだけでも価値があるぐらいの無欲で試合に臨むと、前半10分くらいで左サイドから湯田が持ち込んでシュートしたボールがDFにはじかれてゴール前に。走りこんでいた自分が、あっさりと地味なボレーシュートで先制してしまう。このゴールで相手チームが俄然目をさまし、監督のゲキのもとすさまじい猛攻が始まった。なんとか前半を1−0でしのいだが、全く勝つ気のしないまま後半の笛が鳴る。後半がはじまるとなぜかまた相手チームは慎重で、その一瞬の隙をついて松本が左サイドを深くえぐり、マイナスボールを折り返す。そのボールに自分が再びあわせてゴールの左上すみに叩き込んで追加点。このあまりに絵に書いたような時間帯での追加点に相手チームの心が折れた。この後も攻撃の手を緩めず村上先輩の弾丸シュートも炸裂、相手チームの反撃を2点に押さえ、終わってみれば4−2の快勝となってしまった。ほんの小さな油断から鹿児島工業は力を発揮できず、我々は十分以上の力を発揮できたということだが、GK上妻があたりにあたったことも大きい。特に前半の相手の猛攻を再三のセービングで防いでくれたことが、後半の相手の焦りと我々の再びの攻勢へと導いてくれた。(上妻は身長165cmの小さな偉大なGK)
 ところが決勝では我々がこの油断に苦しむことになる。相手は県大会でも優勝を分けた商大付属、このときも2−0の展開から同点に追いつかれている。前日の鹿児島戦の結果から我々が圧倒的に有利と誰もが思い、試合が始まっても松本と自分の得点であっさりと2−0で前半を終えた。追加点さえ挙げれば完勝のはずだったが、サッカーの神様はラッキーチーム同士をもっと盛り上げたかったようだ。ゴール前の混戦から1点を返されると終了前についに追いつかれ、延長戦に。連戦の疲れから足を痙攣する選手も続出、両チームとも攻撃の形がつくれないまま、PK戦。サドンレスでようやく決着がついたが、どっちが勝ったとしても、サッカーの神様の気まぐれはここで終わっていたようだ。
 浮かれた気持ちで臨んだ全国大会1回戦の青森五戸高戦。風上の前半、10分ほどの怒涛の攻撃でゴールを何度も脅かすも得点できず、15分くらいに30m付近で相手FK.。風下独特のロングキックの急降下(ラッキーゴール)で失点を食らうと、みんな冷水を食らったように足が止まってしまった。こうなるともう何をやってもうまくいかない。五戸攻撃陣はますます調子に乗り、終わってみれば0−6の屈辱的大敗。シンデレラの魔法がとけたような惨めな気持ちで大阪を去る。

〜442システム〜
 当時圧倒的な強さのイングランドサッカーにあこがれていた自分が主将になると2トップとサイド攻撃を特徴とするイングランドの442システムを独断で取り入れた。まだWMシステムが主流の当時の九州で2トップ、4ハーフ、4バックという442システムが南九州大会の鹿児島工業戦(4−2)では面白いように見事にはまった(この秋の国体で鹿児島は全国3位)。WMシステム相手では中盤でのポゼッション力が圧倒的に強かった。村上先輩、松本という強力FWがいたから可能なフォーメーションだった。しかし、大阪の本大会では青森五戸高校に惨敗(0−6)、このチームの神通力もここで消えた。

●進学校でのタブー
 年明けの新人戦は準決勝で熊本農業高校に0−2で敗北、夏のインターハイも結局、宇土高校の前に0−2で準決勝敗退、詫間をはじめ殆どの3年生は例年通りここで引退。(私と松本は選手権まで続ける意思を示したが2年生に強く引退を迫られ、やむなく個人練習を継続。結局、大会直前になって前田先生や次期主将の大渕の説得で選手権には二人とも参加できることになった。)
 3年生で松本安宏とともに出場した選手権は自分たちの本当の実力を試せる最良の舞台だった。東海第二、松橋高校はじめライバルチームを完全に撃破し、熊本の高校サッカープレーヤーのあこがれである選手権決勝(芝グラウンド&TV放送)に2年連続出場、敗れた(2−4)とは言え王者宇土に再三リードを奪う真っ向勝負を挑み、自身生涯忘れられないゴールを2度も体験することが出来た。
 進学校であるゆえの1,2年生主体での選手権。そのタブーを破る3年生が現れると(村上先輩、宮崎、松本、一級下では大渕龍介)このチームにはサッカーの神様が気まぐれをおこすのかも知れない。