S48年卒の部室

1.当時の県内高校サッカーの状況等について



     
県内の強豪と言えば、八代第一・宇土の2校。市内では熊本工業・熊本第一工業だったように記憶しています。当時の我々済済黌の位置付けは、県内ベスト4の実力。八代第一にはどうしても勝てないけど、熊工には互角の戦いをしていたと思います。


     
今でこそ高校サッカーと言えば花形スポーツですが、今思えば、当時はただ単にサッカー好きが集まり、戦略もなく根性だけで泥まみれになってボールを追っかけていたように思います。


     
当時は野球部の試合と違い応援など一切ないし期待もしていませんでした。応援と言えば、特定の個人目当ての数少ない母校の女生徒が、2〜3名来ていた程度ではないしょうか?


2.戦績等について


(1)公式戦の記録

   
    ・ 新人戦         (2年生の秋)     
                       1回戦   1対1  熊本農業  (抽選負け) 

    
         ・  高校選手権予選 (2年生の冬) 
                       1回戦   1対2   宇土高校  (逆転負け)

    
         ・ インター杯予選 (3年生の夏)   
                       1回戦  7対0   菊池農業 (勝利)

           準々決勝  2対4   八代第一 
                         (敗戦・八代第一は県代表としてインター杯に出場)

               (2回戦〜3回戦の記憶なし)


 (2) 合宿・遠征等

  

・ 1年生時の夏合宿   水俣市の市民グラウンド (市営体育館の和室に宿泊)

・ 
2年生時の夏合宿   阿蘇町内牧のグラウンド (ホテル「五岳荘」に宿泊)

・ 
2年生時の遠征    島原遠征   
                長崎西  2対1 勝利

               島原商業 1対7 完敗 (島原商業は小嶺監督)

 
3.回想記

     

・ 当時のメンバーは、経験者と初心者が半々の構成でした。主将の立場として何よりも頭を悩ませた事は、試合に勝つベストメンバーでチーム作りをするのか、高校の部活としてバランスを大切にするのか、という点でした。当時は、監督もコーチもおらず日々の練習メニュー作りも主将の仕事でした。私の出した結論は、「チームの為、自分自身を高める為、一生懸命まじめに練習に取り組む人からレギュラーにしよう」と決めました。勿論、高年次の人から順次選択していった事も事実ですが・・・・・。今思えば、この考え方がチームにとって最適であったかどうかは解りませんが、自分としては今でもその事について、まったく後悔していません(当時の主将/小島)


      中学の頃はヤワなサッカーしかしていなかったので、とにかく練習がきつかったとの印象が残っています。腰を痛めて整形外科に通いながらの練習をしていた為、一度はクラブを辞めようと思い当時のキャプテン(前川さんか藤林さん)に直訴しましたが、ほとんど聞いて貰えなかったと記憶しています。(先輩が怖くてはっきり言えなかったのかも・・・・・)あと印象に残っている事は、1年生夏の水俣合宿の記憶です。「本当にきつかった」。覚えているのは、毎日の昼飯が「親子どんぶり」であった事、誰かのどんぶりに蝿が入っていた事。合宿終わり近くでは真っ黒いションベンが出てびっくりしたこと等々。合宿を途中リタイヤせず乗り切ることができ、その時にはなぜか感動しました。そう言えば、あれ以来水俣には一度も行っていません。高校3年間は、済済黌に通学したというより「サッカー部」に通っていたと言っても過言ではありません。懐かしい3年間です(当時副主将/角江)


      そのころの済済黌サッカーには、自主性を重んじ・自由な雰囲気があり将来性を感じていました。私個人、少しでもうまくなりたいと思い、よく立田山を走り、練習は誰よりも多くやったと自負しています。高校卒業後、昭和25年卒業の川田先輩のご縁で日本リーグの日立製作所に入社、ブラジル留学も経験しました。現地で見た本場のサッカーに日本が追いつくには100年はかかるな・・・・と当時は感じていました。あれから30年が経ち今回のドイツワールドカップでブラジルにどこまで追いつけたのか見るのが楽しみです。昨年からシニアサッカーでボールを少しずつ蹴りはじめました。昭和14年卒業の緒方大先輩を目標に粘り強く、長く続けていきたいと思うこの頃です(当時のセンターフォワード、国体の県代表/村上)


      当時の記憶は不確かですが、練習後の学校前の売店の印象が残っています。当時のメンバーは、小島・角江・村上・中島と4人の中学時代の主将が揃いかなり個性的だったように思います。私自身、宇土から学区外入学の為、練習後疲れて駅を乗り越した事も何度もありました。2年からレギュラーとなり技術的にはそこそこと自負していましたが、当時の誰もが認めるようにスピードが足りなかったようです。卒業後、東京の大学に進学し、体育会のサッカー部で卒業まで続けました。その中で埼玉や静岡の選手と較べ戦術・戦略・基本技術などの不足、さらには、サッカーに対する情報や育成システムなどの不足を痛感し、「井の中のカワズ」であったことを認識しました。(当時バックの要/松落)


     
私は初心者として入部しましたが、当時の新入部員は各中学校のキャプテンやエースが多かったようです。途中で辞めていく者も多く夏休み前には10人位になりました。私自身も1年間で一度退部、2年生の後半からマネージャーとして復帰しました。サッカー部時代については決して楽しい思い出は残っていませんが、在籍したことで、@雑巾がけを苦に思わないようになったこと、A今でも親しく付き合えるメンバーができた事のふたつのかけがえのない財産を得ることができました。特に、浪人時代にやくざな生活から救ってくれた松落君、ありがとう。今でも感謝しています。(当時マネージャー/久木田)


      在籍が短かったせいか、記憶に大きく残っている事は1年夏の水俣合宿です。とにかくきつかったことを覚えています。特に、練習の締めくくりにやっていたインターバル(?)毎日何本やったでしょうか。合宿所から川沿いの道をグランドまでたらたら話しながら通ったように思いだします。また、入学時からちょっと強い近視で夕暮れ時の練習となるとボールがぼやけていくつにも見えました。3年の時コンタクトレンズを使用して参加した正月の6人制サッカーでは、試合中にコンタクトを落とし、皆さんに多大な迷惑をおかけしたように覚えています。この場を借りて御礼申し上げます(当時フォワード/若宮)


      済済黌サッカー部の思い出として強烈に記憶に残っている事は入学式前の練習見学です。確か、小島、村上、自分の3人であったと思います。練習見学後、部室のあった長屋の裏に連れて行かれて、挨拶の練習をさせられました。先輩に会ったときは、「チャ」、帰るときは、「シャス」であったと思います。翌日から早速練習に参加しました。高校最後の試合となった総体の八代第一戦は確か雨中の試合で2対4で負けましたが、なぜか自分自身は満足してしまって、その後サッカーから距離を置くようになりました。現在は運動不足でぶくぶくしております。(当時レフトウィング/中島)


 ・ 下手ながらもずうずうしく3年間在籍してしまいました。弱小中学校出身の為、当初はあまりのレベルの違いに戸惑いましたが、厳しいけど本当は優しい先輩や同級生のおかげで続けることができました。当時の一番記憶に残っている事は、バックの要?松落君と「試合でどちらが先に得点をするか」の勝負を行い、不覚にも負けてしまったことです。罰ゲームはなかったと記憶していますが、一生忘れない出来事です。自慢する訳ではありませんが、因みにアシストは私の方が先に記録したはずです。メンバー紹介の中で「きたないファール」とありますが、「頭脳的なプレーでチームの危機を救っていた」と読み替えて下さい。最後の試合は、雨中でラインがわからない状態。相手の一点目は明らかにエンドラインを割っていましたが、そのまま続行されて失点に繋がったと記憶しています(当時バックの足手まとい/高木)


      年明け1月12日に村上から連絡を受け、急遽、今回の「サッカー部記念誌発行」の原稿をまとめる事になりました。昨今メールが発達したこともありますが、短期間に当時のメンバーを探しだし原稿を作り上げることができました。これもひとえにチームワークの賜物だと思っています。(転校生/西嶋)

氏 名

出身校

ポジション

 紹  介  内  容

角江 慶輔

附属中

ハーフ

・角江と言えば、なぜか練習の後、体育館の横の水道で最後まで居残って帰らない姿が浮かぶ・・・・・(N氏) ・試合でも練習でも相手に抜かれると「アッ!」と大きな声を出して追いかけていたような・・・・・

久木田 憲司

竜南中

マネージャー

・ちょっと久木田のサッカーパンツを借りたら、なんか「○○チンキ」を塗るような病気をもらってしまった・・・・・(W氏)
・マネージャーとして、本当によく皆のサポートしてくれました。感謝してます。あの久木田特製の「蜂蜜入りスライスレモン」が懐かしい・・・・・

★小島 義人

竜南中

インナー

・主将として、わがままなメンバーを良くまとめていたと思います
・サッカーセンスがあり、体・足ではなく手・目でのフェイントが上手かった
・一方で要領がよかったように記憶してるけど、もっと真剣にサッカーに取り組んでいれば・・・・・・(N氏)

高木 雅年

附属中

バック

・チーム内では一番紳士然としていながら、ファールはきたない高木さん。練習中でも後ろからおれのユニフォーム引っ張ってなかった?(W氏・K氏)

中島 義和

藤園中

レフト

ウィング

・俊足の名レフトウィングでした。雨のグランドでセンタリングをあげた後でも決してユニフォームが汚れないのが印象的だった(K氏)
・足の速さは練習後も如何なく発揮。角江より1時間は帰りが早かったのでは・・・・・(N氏)

西嶋 一郎

金沢二水高(転入)

ハーフ

・1年の2学期に転校して来て誘いもしないのにサッカー部に入ってきた物好き。3年間で変化率は一番かも・・・・・
・はっきり言ってライバルと思ってたけど、僕も続けていたらこれくらい出来るようになっただろうか・・・・・・? (W氏)

本田 好文

鏡中(八代)

キーパー

・たまにしかないけど、気分が乗ると猫っ飛びを披露
・昼休みにスコップ持ってゴール前を耕していた姿が懐かしい・・・・
・卒業以来、消息を耳にしていないけど、どこかで小説でも書いてるのかなあ

 

松落 英幸

宇土鶴城中

バック

・1対1で一度も?抜けなかった松落さん。でも抜いたらこっちのものでしたね・・・・足さえ速ければ県の国体選抜になれたのでは・・・・・? (T氏)
・練習はほどほどに、紅白試合が大好き。よく練習中に変なフェイントを披露して先輩にお叱りを受けていたっけ・・・・・(K氏)

村上 信介

白川中

センター

フォワード

・入部したばっかりの頃、村上のシュートはとにかくすごかった。ゴールネットに突き刺さった後さらに伸びようとしているように見えた。あの時がピークだったりして・・・・・・(W氏)
・調子が悪い時には、手に根性焼きを入れてたっけ・・・・(K氏)

若宮 洋

桜山中

フォワード

・当時、今どきのコンタクトさえあれば3年間サッカーを続けていたのでしょうね・・・・・
・バネの利いた飛び跳ねるような走りは印象的で僕もライバルだと思ってました。久木田は僕(N氏)をライバルだと思っていたようだけど・・・・(N氏)