S47年卒の部室


     回想記

サッカー部の一番の印象と言えば、なぜ呼吸もできない程の極限状況に先輩達は自分を追い込むのか。立田山の坂道、目もくらむ登り階段

水俣でのインターバル、午後の練習の間の休憩時間では、倒れてレモンだけをかじる事しかできなかったあの時の自分。辛く苦しいものであった。

最も鮮明に記憶しているには、3年最後の八代第一戦である。

相手の得点と味方の自殺点に依り2−0とリードされ、後半残り15分頃、ハーフウェイライン右隅からのフリーキックで自分にチャンスが来た。

雨の為ボールは重くすべりやすい。

相手ゴール前では鳥飼と村上がしきりに手を振り、「オレにボールを」と言っている。

八代第一も技術面、体力面も我々とほぼ互角と思い小細工は通用しない。直接ゴールをと自分で思いゴールポスト左上隅とキーパーの間を狙い渾身の力を込めてボールを蹴った。

ボールは思ったよりもキーパーに近く、ややキーパーが飛び上がり両手でキャッチする様に見えたが、そのボールの勢いと重みでキーパーの手をすり抜け、我々の得点となった。

結果的に2−1で負けとなり、最後に得点できた嬉しさもあったが、負けた悔しさの方が強く涙が止まらなかった。

 あれ程の練習の苦しさ、辛さは社会人になってからはない。あの練習を耐えた者には、これから毎日を楽しく過ごしていく手段を身に付けている事だろうと思う。(竹本)

 

メキシコオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得したことで、私達新入生の初練習参加者は70余名となった。その日はあいにくの雨で、旧校舎を使用した地獄の強化練習が行われた。初めて経験をする過酷な肉体増強訓練であり、涙を流しながら頑張る者も、具合が悪いので帰りたいと願い出る者もいて、翌日の練習に参加した同輩は20名にも満たなかった。

 当時の米岡主将率いるチームはとても怖かったが試合にも強く、最後となった第一工業戦は今でも強く印象に残っている。1年後に久木田君が入学第1号の入部者となり、夏には水俣市で合宿が行われ同輩得意の脱走者も出たのだが丈夫な身体と多くの想い出を貰った済々黌蹴球部に感謝している。(鳥飼)

 

当時は、熊工、熊商、第二、東海、それと第一工業の6校でリーグ戦をやっていたような気がする。それでシーズン中の毎土曜日は、自転車の荷台に着替え、ボール等を山積みして、砂ぼこり舞う第二や、桑畑の中の熊工なんかへ出掛けていた記憶がある。(第二のグランドなんか今からは考えられない程辺鄙な所で、フェンスの東側は阿蘇まで畑がずっと続いていた‥)

あと記憶に残っているのは水俣での合宿。練習が辛く苦しかったことはよく思い出せないが、わずか一週間位だったハズなのにとても長い間拘束されていたような、途中地元の社会人チームと練習試合があったが、その日は午後からの練習が少なかったのがとても嬉しかった事等、どうでも良いような事ばかり思い出してしまう。

試合では、最後の試合となった八代第一戦が印象深い。

試合の1ヶ月程前から両足首の捻挫を繰り返し、前田先生に出場を辞退させて下さいとお願いしたものの、技術よりも体で相手を止める事にこそお前の存在価値があると言われ、結局出る事となったが、8の字にテーピングした両足はキックはおろか、走る事さえままならない状態であった。

熊工で行われた試合は、時おり激しい雨が振っていたように記憶する。

試合の詳細は忘れたが、途中でバックパスを出した時、キーパーの久野が戸惑ったような顔になったこと、それがゴール前の水溜りで止まったこと、そしてそこへ敵、味方が雪崩れ込んで行ったこと‥、なんかそんな風に記憶している。

しかし、あれからもう35年も経っていたとは‥ (堀江)

 

あの頃観た映画「いちご白書」。

初めて飲んだ「コカ・コーラ」。

一杯50円の学食のうどん。

ゴール前で歌わされた歌「空よ」。

練習の後に飲んだ「クール・パンチ」15円。

藤林、竹本、鳥飼、堀江、久野。

そして俺。

熱く燃えた夏。

駆け抜けた青春。(安武)

 

初心者で入部したので基礎体力も技術もなく、練習はかなりきついものだった。とくに雨

天時の室内筋トレと練習に気合が入っていないと前川さんから「立田山!」の一声でのラ

ンニングは泣っかぶって走った。またシュート練習で道を隔てた熊大敷地の草むらへ玉ひ

ろい行ったのも良く覚えいる。他校での試合で当時はペットボトルなどなく、1年生はぞう

きんバケツを借りてきて水を入れ、先輩たちがハーフタイムにそれで口をすすいだり、飲

んだり?していたが、今では考えられないこと。途中退部したので試合の思い出より練習

が記憶に残っている。練習後の校門下の店で「チェリオ」が安くて、旨かったのも懐かし

い。現在、上司の下で泣っかぶって走っている。

(小山)