S44年卒の部室
我が青春の1ページ
1) 戦績(新人戦)S43(1968)年
対戦相手 得点 得点者
02月17(土) 天草倉岳分校 7−4
02月18(日) 商大付 8−0
02月24(土) 鎮西 4−3
02月25(日)  準決勝 熊工 2−1
                  (1−1)
(1−0) 野上
                決勝 八代一 1−0
(0−0)
(1−0) 田中

 

2)新人戦を戦った時のポジションと背番号

   
  

 J内布  H園村  F米岡(45年卒)

 

     I野上  G田中

 

   E穴井       C歌野

        D代田(諏訪下45年卒)

    

B高浜(45年卒) A南条

    @清原

 

3)写真内容(背番号と選手名:下級生は修学旅行に行って不在でした。)

   左端から

@ 清原 憲一 : 若き、精悍なこの頃。言わずと知れた現在RKKアナウンサー。当時から“あご”が強力な武器でした。
D 代田雄一郎 :

水前寺競技場の合宿で一番辛い思いをしました。

当時の事は思い出したくありません。(本人の気持ちを代弁しました)

C 穴井 俊徳 : 父親のあとを継いで健軍町でしばらく建築業を営んでいました。現在はYMCA勤務。
E 歌野 敬   : 五島列島で自給自足の生活を続けています、もうずいぶん長くなりました。
A 南条 正夫 : どういう訳か中央に陣取っています(私は背番号順に並ぼうと言ったつもりでしたが) 今では“太陽”の様な存在、この人を中心にして他のメンバーが回っています。「当時の事は思い出したくありませんので忘れました」これが返事でした。
F 田中 正明 : 当時100m11秒台の俊足フォワード、上記決勝戦の得点者、現在は熊本市役所勤務。
H 園村 一夫 :

ビール缶の内面コーティング開発に従事する化学屋さん、国内シェア80%(これ内緒)、日本ペイント栃木工場勤務。 

I 野上 誠一 : キャプテン と言ってもメンバーを代表して殴られるのが仕事でした。試合に負けたり、集合時間が遅かったり、練習内容が悪かったり・・・、そんな時決って私の出番でした。余談ですが試験成績が悪い時も別の先輩から殴られましたこの時 ばかりは他にも何人か一緒でしたが。本当に目から火花が飛びました。
J 内布 伸一 : どこの国へ行っても現地人と同化できるパーソナリティ。ベルギー、イタリア、スペイン、 ペルー、タイ、中国、インド、そして現在インドネシア勤務中、なかなか帰って来れません。本田技研大津工場所属。

 

4)写真について補足説明(千円で作ったユニフォーム)他

皆から千円づつ集めてユニフォームを作りました。(GKは除く)

靴下と短パンはハヤカワスポーツ(上通り店)にて求め、シャツは当時、長六橋北側に有った卸市場にて購入しました。シャツは卸屋の女主人が事情を察してくれ、まけてくれてなんとか予算内におさまりました。

 

背番号は家で和裁の仕事をしていた母に紺色の端切れをもらって自分で切り抜いた後をミシンで縫ってもらいましたが番号の周囲を“かがる”ことをしていなかったため激しい試合の後では背番号がはがれてしまいました。

背番号以外には何もついていないユニフォームでしたがボロボロになるまで使い現在は靴下だけが大切な宝物として残っています。

 

当時のサッカー部予算が年間9万円、1個3,000円のボールを30個買ったらそれでおしまいでした。

そんな訳で色々工夫してやりくりしました。

他にもゴールポストのペンキ塗りやグランドの草取り、楠木の枝を使ったペンデルを作ってボレーキックやヘッディングの練習、グランド状態の悪いときは弓道場の標的台に切れた弦を張って雑草の上でサッカーバレーをやったり、ひと目を盗んでテニスコートでサッカーテニスをやったり(もう時効かなあ)・・・。

 

練習のためのアイデアは図書館に備えてあったチャナディのサッカー(上巻)(下巻)や日本サッカー協会の機関紙から学びました。主に土曜日の練習が終わってから図書館で清原君と一緒に読破しました。

日本サッカー協会の機関紙に紹介されている全日本チームの練習メニューが当時我々の練習内容と同じか又は我々の方がより厳しいメニューを消化というかやらされていたというかに気付いて驚いたものです。

 

5)新人戦について

こんな試行錯誤を繰り返しながらも新人戦で結果を残せたことは何故だったのか今でも不思議な気がします。

 

殆どのメンバーが高校入学してからサッカーを始めており中学時代の経験者(補欠を含む)が2〜3人、中学での優勝経験者が私一人、ボールリフティング10回を目標に練習していたそんなチームがあれよあれよと決勝戦まで勝ちあがり、決勝戦の相手はなんと一度、練習試合(八代まで遠征に行って)で1対4で大敗した苦い経験のある八代第一(現在の秀岳館)、おまけに中学時代の有力選手を集めて補強したチーム、ユース候補選手までいて誰がどう考えても決勝戦の勝敗は決まったも同然、百人が百人とも八代第一の勝ちを疑わなかったところへ怖いもの知らずの我々、勝てる自信はなかったものの逆に負ける事も頭の中には有りませんでした。

 

決勝戦では練習試合で取られた4点を徹底して防ぎ(相手シュートの瞬間は目をつぶりました、味方がピンチのときはゴールの中に入って守りました、背番号Iの私でしたが)練習試合で唯一得点を挙げた田中君のGKの癖を見抜いた、狙いすましたシュートが相手バックスの首をすくめた頭の上を・・・、ゴールネットへ突き刺さりました。(GKはセンタリングに対するキャッチング時に一度ボールをはじくそして地面に落ちた後をキャッチする癖が有りました)

 

そして試合終了の笛(このときの主審が熊高&熊大OBの国米さん、試合中励ましてくれました。感謝しております)。

 

優勝したことよりも試合が終わって極度の緊張から開放されてほっとしたことの方がうれしかった事を覚えています。この時、祝福に来られた緒方大先輩に「もっと嬉か顔ができんとか」といわれてもそんな元気すらも残っていませんでした。

 

それまでは絶えず吉尾先輩の顔色を伺いながら試合していましたが、この新人戦の時はどういう訳か大島先輩の応援をいただき、いつも萎縮してプレーしていた我々が何の迷いもなく、伸び伸びと思う存分プレーできたことがいい結果を生んだひとつの原因かと思います。

 

当時、当然のことながら父母の応援は無く勉強優先の立場上、家庭での会話も優勝した事を自ら口にすることもなく、メンバーの中には翌日の新聞記事を見た家族から「優勝したのかい?」とおどろいて問われる始末、そんなサッカーを取り巻く環境でした。

 

6)最後に

いろんな方々の支援が有ってはじめて残すことができた新人戦の結果だと今になって思います。

この場を借りて当時の川添黌長先生、前田先生、先輩方、後輩諸氏に深く感謝申し上げます。

 

河添黌長先生はある土曜日の練習後、草取りに意地になって取り組んでいる私の所へ来られ「何をやっている?」と聞かれました。私が「練習の時、正確なキックが出来なくて困っています、そのため雑草を根こそぎ抜いています」と答えました。

それから数週間するとグランドの雑草が急に減って来て草取りに尽力する必要がなくなっていました。

今になって考えると川添黌長先生の配慮としか考えられません。そういった目に見えない形での支援をうけながら突き進んでいた我々であったことを今更ながら有り難く思います。

 

又、夏のグランドのホコリで私は結膜炎症(眼疾)を起し、散水のためにドラム缶を準備したりしましたが焼け石に水状態、これに対しては前田先生の配慮でゴール裏へ水道を引いてもらう事もこの頃叶いました。

 

これだけ苦労して得られた新人戦の結果を何とか記念に残そうと思い写真を撮ることを思いつきました。

写真の背景に有る梅の木によく見ると紅梅、白梅の花が咲いています。丁度、記念写真にふさわしい背景でした。

 

この時は父のカメラ(工事写真撮影用)を借りてフィルムの最後に残った一コマに撮影することが出来ました。貴重な貴重な本当に貴重な何物にも代え難い青春の一ページです。

シャッターは当時部室が隣同士だった新聞部の同級生、春木進君(現在熊日新聞勤務)にお願いしました。

 

当時のカラープリントの品質は現在のレベルに遠く及ばずやがて色があせてしまうことを恐れ自分のカメラで撮り直して(1986年の日付)ネガを保存しておきましたが、まさかこの様な形で紹介できるようになろうとは思っても見ませんでした。オリジナルのネガはどうした訳か出てきませんでしたし、オリジナルのプリントは今ではもう完全に色褪せ状態です。

 

とめどもない文章をつづりましたがまだ他にも色々と思い出されて来ます。これらの私たちの辿った道のりが後に続く後輩たちへの道しるべとして少しでも役に立てば望外の喜びです。

 

又、最後になりましたが、この様な発表の機会を与えて下さった諸先輩方の御尽力にも深く感謝いたします。

 

 

野上 誠一

 

ああ合宿・・・                              清原憲一

 

毎年、夏が来て、思い出したくなくても、暑さとともに思い出すものがあります。

それは、「合宿」・・・


世間のみなさんは、夏の合宿の思い出は、楽しさとともにあるかもしれませんが、私の高校時代=1966年から69年にかけて、済々黌サッカー部の「夏の強化合宿」はそれはそれは、中身の濃い、ハードトレーニングでした。「しごき」とか「いじめ」とかではなくて、練習そのものが、ものすごく、きまじめにハードだったのです。それもそのはず、当時、日本のサッカー界をリードしていた早稲田大学に進んだ先輩が、帰省して、直々の指導でした。

ああ、こう書き込みしているだけで、緊張し、息遣いも荒くなってきます。

 

注:(早稲田大学は1966年度天皇杯で東洋工業を破り日本一になっています。それ以来、今日まで大学勢の天皇杯制覇はありません。それほど強かったのです。)

 

さて、合宿のエピソードですが・・・

 

1年生の夏休み前、3年生の積先輩から、「もうすぐガッシュクぞ。ガッシュクは、きつかばってん、トランプなんか持っていくと楽しかぞ」と言われました。

ハハ、あの頃は素直で純情でした。

言いつけ通り、トランプを持って行きました。が、そのまんまでした・・・

これに懲りて、いや学習し、2年目の夏合宿には、遺書を書いて臨みました。今思うと、滑稽ですが、それなりの覚悟を決めての合宿参加でした。

 

その我々の「合宿」の名物は、「強化体操の鶯の谷渡り」に「3メーターダッシュ」に「インターバル走」・・・


鶯の谷渡り、いわゆる「ウグイスダニ」は、二人一組、馬跳びして股間をくぐる繰り返し。時間内に回数をこなさないと、さらにやり直しです。


やり直しといえば、3メーターダッシュも大変でした。

早稲田の先輩は、この練習メニューを単純に「3メーター」と言います。

世間一般の皆さんは、この「3メーター」を、たった3mとお思いでしょうが、サッカーの3mはボール支配の勝負の距離です。腰をきっちり落としてダッシュしないと負けてしまいます。ホイッスルが、ピュルピュルピュルルルルと低めに鳴ると「ハイ、やり直し」・・・早稲田の先輩の声が、炎天下、きわめてクールに響きます。

 

そして、ハイライトは「インターバル走」。

これは、午前の練習の仕上げでした。私たち済々黌サッカー部では「インターバル」と言うならわしで、intervalそのものは、素直に和訳すると、「休憩時間」なんですが、なんのなんの!ピッチのゴールラインからゴールラインまで全力疾走の10本。これも設定タイムに入らないと、連帯責任、全員やり直しの追加です。

正午に近い時間帯、気温が上昇する中、意識が朦朧となりながら、自分のためでなく、みんなのためと思い、走ったものです。2年生の夏の内牧合宿で、日本体育大学に進み、陸上短距離が専門の馬場先輩に、後ろ、つきっきりで、「キヨハラ速よ走れ」と追われながら走ったことを思い出します。

とにかく、厳しかった・・・きつかった・・・です。

 

1年生の時の水前寺競技場での一週間の合宿は、地獄の思いでした・・・

明日で打ち上げという7月30日の午前中に鶴屋百貨店との練習マッチがありました。早稲田の先輩は、試合前のミーティングで「勝て」の指示。


試合結果は、1対1に引き分けでした。


炎天下、ピッチサイドで、声を出し、ボール拾いをしていた私は、勝てなかったけど、社会人相手に、引き分けで、内心ホッとしました。ところが、臙脂にW文字のトレーナー、サングラス姿の先輩の口から出た言葉は、


「なんで勝たん。ヨシというまで走れ」でした。

タッチライン、ゴールラインが次々にめぐり来るいつ果てるともないランニング・・・スパイクの底から地熱が伝わり、コーナーフラッグは、陽炎の向こうで揺れます。臙脂のトレーナーが、スタンドの陰から、日向に出てきました。「ああ、やっと終わる」と思いきや、「もっと速く走れんのか」・・・

何周走ったでしょう・・・数える気力など毛頭ありませんでしたが・・・

2年生の木下さんが、倒れます。すると、臙脂のトレーナーが動きます。

「これで、終わるぞ」と思いきや、バケツに水汲んで、頭からバサー・・・


陸上トラックで練習中の第一工業の長距離選手が、

「こいつら、まだ走っとる。馬鹿バイ」と、あきれかえっていましたっけ。

とにかく、とにかく、きつかった・・・です。

 

ですから、猛暑とともによみがえる「合宿」という言葉と「ガッシュク」という響きにこの年齢になっても、精神的アレルギー反応が出るのでしょう。

 

この早稲田の先輩に、誰が「鬼の吉尾」と名付けたのでしょう。
しかし、あんな大学生は、今は、どこ探してもいないでしょう。
あの当時、合宿所の手配から、練習メニュー、指導まで、すべてが、二十歳過ぎたばかりの一人の男の仕業ですもの。それからの人生、あんなリーダーシップ持った大学生に会ったことはありません。

 

鬼と思えた早稲田の先輩の名は、吉尾孝徳といいます。

その後、母黌の監督になり、30余年、今も健在です。

こちらも、その監督を補佐し、全国大会出場、九州大会準優勝の前後、しばらく母黌のGKコーチを務める期間があり、御縁の深さにびっくりさせられます。

 

合宿でやり直しばかりさせられていた人間が、やり直しのきかない放送の世界で、アナウンサーになって、暑さに強く仕事ができるのは、あの「合宿」のお蔭かもしれませんが、「ガッシュク」の言葉の響きは、あのときのままです。

 

2年生の阿蘇・内牧の合宿は、済々黌サッカー部の大先輩、池田さんの経営する旅館、五岳荘でした。真夏でも涼しくて、練習疲れの快適な寝入りばな、決まって、お酒飲んで宿舎ご帰還の高光先輩の高歌放吟、美樹克彦の流行歌=「かおるちゃん遅くなってごめんね」が階下から聞こえてきて、眠れなかった夜・・・「花は遅かった」ではなく、高光先輩、「君は遅かった!」

 

ああ、今夜あたり、あのテーマソングとともに「合宿」の夢でも見そうです。

どうしましょう!アレー

同心会 会報「同心」第104号コラム「先輩・後輩」

 

先輩が恨めしかった...
                         
歌野 敬(五島列島在住)


思い出は何といっても練習のきつさ。季節は決まって夏。体力が最低の人間だったので、苦々しい思いと共にシーンが蘇ってきます。

*1年生の時の合宿、水前寺球場のトラック。何週走らされたか覚えていませんが、加山雄三の「お嫁においで」なる軽薄極まりない、おめでたい限りの歌にうんざりしながら、延々と走り続けていました。もう気分は臨終前でした。

 

*2年生の時の合宿は阿蘇の大先輩の旅館でしたか、飯がほとんどのどを通らず、食事の賄いのおばさんにあきれられていました。4泊か5泊だったと思いますが、一日で茶碗1杯も食べたでしょうか。ホントにきつかった。よく最後まで保ったものだと今にして思います。でも晩御飯のとき飲んだ缶ビールは最高にうまいものでした。(別に隠れて飲んだ記憶はないから、みんな飲んでたのかな)。ここでの思い出のシーンも走っている情景。なぜかこのときは先輩諸氏が数多くしごきに来られ、こちらは死ぬ目にあっているのに、日陰で眺めている先輩諸氏が何と恨めしかったことか。卒業しても俺は金輪際先輩面して練習見には来ないぞ、と固く誓ったものでした。

 

とまあ、こんなことを連ねていてはきりがありません。きつかったが,今はいい思い出、と常套句で締めくくりましょう。

いま。百姓生活に精出す日々ですが、作業着に着替えるとき必ず水泳パンツを着用します。女房や子供たちの訝しげな視線を無視し、田の草取りの時など、終わったら川で泥だらけになった作業着を洗い、水泳パンツ姿で村を闊歩して帰るのです、家人の顰蹙を買いながら。これはサッカー部で身に付いた習慣というもので、至極合理的な下着保護策ですね。サッカー部時代は年中、いまは初夏から晩秋までと着用期間は変わっても、競泳用のあのぴったりフィットするパンツを愛用することで、サッカー部の一員であったことを確認しているのです。

大変なクラブ入部した...

                      内布伸一(インドネシア在住)


今回の駐在先は1年に1回しか日本に帰れません。その上、去年、今年と増産で、正月も以前は連休があったようですが、2,3日しかなく有給も取れない状態です。任期は後1年半ですが何とか頑張るしか仕方ないかと思っています。


さて、サッカー部の思い出ですが、

@

まず入部早々竜田山までのランニングの後、階段のダッシュをいきなり初日にやらされた事に大変びっくりしました。走る事は不得意では無かったのですが、これは大変なクラブ入部したなとそのときは思いました。

A

次の思い出として熊大側の壁の近くに大きなくすのき?が有り、そこに野上君がペンデルをつるし、ボレーキックとヘディングの練習をしていた事。これはタイミングを掴むのに後で大変役にたちました。・・・樹の上のほうにつるされていたのでストロークが長く非常に練習しやすく上達に役立ちました

B

後、天草五橋が完成したとき、皆で熊本をスタートし(確か田中の家に皆集まったと思いますが)、歩いて1号橋までいった思い出、確か野上君と、園村君、後藤君が最後走り出してタフだなあと感心しました。(実際は5号橋まででした)。

C

ゲームで覚えているのは、やはり新人戦の優勝ですか。確か熊工のグランドであったように思いますが、違っていますか?八代第一まで練習試合に出かけ、綿密なデータを取って試合に活かした。あれ!!これは違っていますか?

D

とにかく試合の事は余り良く覚えていないようですがその他の事は、よく覚えています。練習の帰りには、歌野と帰る方向がいっしょでしたのでおなかがすいて、よく大江の商大通り、今は何とかホール(有名な元アナウンサーが館長)の前のお好み焼きやによって、2人で腹ごしらえをしてから帰っていました。今もあるかどうかは解りませんが・・・。